朝、電車に乗ります。降りたい駅は、とっくに過ぎている。それでも、なぜか降りない。「終点まで、あと少しだから」。そう自分に言い聞かせながら、同じ席に座り続けている。そんな感覚に、心当たりはありませんか。
こういう場所を、たぶん誰もがひとつ持っています。仕事かもしれないし、続けてきた関係かもしれない。辞めたい、とは思う。でも、辞めるほどでもない。その宙ぶらりんの席に、気づけばずっと座っている。
この話は、YouTube の動画でも、少し違う切り口でお話ししています。動画「大学の研究室に違和感を感じているみんなへ!」もあわせてどうぞ。
「辞められない」は、たぶん存在しません
まわりは、いろいろなことを言います。「もったいない」「ここまでやったのに」「みんな続けているよ」。その声に囲まれていると、だんだん自分の声が聞こえなくなる。動けないのは、たぶんそのせいです。
でも、ひとつ、おかしなことに気づきます。「辞められない」って、本当にあるのでしょうか。鎖につながれているわけではありません。扉は、たぶん開いている。それでも降りないなら、それは「辞められない」ではなくて、「降りない方を、選んでいる」なのかもしれません。
心理学者アルフレッド・アドラーの考え方(『嫌われる勇気』で知られる、あの発想です)を借りるなら、人は過去や環境に縛られて動けないのではなく、「動かない」という選択を、今、自分でしている、と考えます。言い方が少し変わるだけ。でも、その一語で景色が裏返ります。
同じ席なのに、乗せられていると思えば檻になり、自分で乗っていると思えばただの移動になる。窓の外を流れる景色は、まったく同じなのに。握られているのか、握っているのか。違うのは、それだけなのかもしれません。
でも、「降りる=自由」ではありません
ここで、簡単な結論に逃げたくなります。「じゃあ全部降りればいい」「好きに生きればいい」。でも、たぶんそうではありません。降りることが、そのまま自由になるわけではないからです。
「やりたくないから、やらない」。それを、向き合いたくないことの言い訳にした瞬間、自由はただの逃げに変わります。やっかいなのは、自由と逃げが、外から見るとよく似た形をしていること。同じ「やらない」でも、中身は正反対になり得ます。
哲学者ニーチェは、群れに合わせるだけの生き方を退け、自分の価値を自分で創って生きることを説きました。ただし彼が本当に嫌ったのは、挑戦を避けて快適さだけを求める姿でもあります。つまり「自分を生きる」とは、嫌なことを一切しないことではなく、なぜそれをするのかを自分に偽らずに選ぶこと、と言い換えられそうです。
見分ける方法は、たぶんひとつしかありません。自分に、嘘をついていないか。ただ、それだけです。
手放す自由と、引き受ける責任はセットです
他人の評価は、手放していいものです。「迷惑をかけるな」「レールに乗れ」という借り物の声に、人生の運転を明け渡さなくていい。ただ、その自由には、必ず片割れがついてきます。選んだ結果を、自分で引き受けること、です。
「壊れてもいい」というのは、「失うものがゼロだ」という意味ではありません。関係が変わることも、手からこぼれるものも、ちゃんとあります。それでも選ぶ、と言い切れる状態と、うまくいかなかったときに誰かのせいにする状態は、まったく違います。恨みを持たずに引き受けられるなら、その選択は、たぶんもう自分のものになっています。
続けても、降りても
だから、続けるのが正解でも、降りるのが正解でもない。問いは、そこではないのかもしれません。それを「自分で選んだ」と言えるかどうか、です。
降りそびれている自分を、意志が弱いからだと責めなくていい。囲む声が大きいと、誰だって自分の声を見失います。それは弱さではなく、ただそういう場所にいる、というだけのことです。
もう一度、最初の問いに戻ります。乗っているのか、乗せられているのか。答えは、たぶんどちらでもいい。ただ、「自分で乗っている」——そう言える日が来るなら、同じ電車が、少し違って見えるかもしれません。
降りたい駅を過ぎてしまったなら、次の駅で降りてもいい。そのまま終点まで乗ってもいい。どちらを選んでも、それがあなた自身の声なら、たぶん、それでいいのだと思います。



