日曜の午後、ふと気づくと、指がまだ画面をなぞっている。窓の外の光はいつのまにか傾いて、部屋のすみが橙色になっている。指先の下を、時間が水みたいに流れていったらしい。すくい上げる前に、もう夕方でした。
そのあとにやってくるのは、たいてい静かな自己嫌悪です。「また一日を画面で溶かした。自分は意志が弱い」。この声は、外には聞こえないぶん、当人の中では大きく響きます。でも、その声に返事をする前に、確かめておきたい数字があるんです。
なお、この「流れていく時間」の話は、動画「四十代の休日にテレビの席を奪ったもの(こっそりカフェ公式)」でも、四十代の逆転という別の角度から眺めています。文章でゆっくり追いたい方は、このまま読み進めてください。
「意志が弱いから」の前に、確かめたい数字があります
画面を見る時間の長さは、ほとんどの場合「個人の性格の問題」として語られます。だらしないから、締まりがないから、と。
ただ、個人の感覚を離れて、社会全体の平均を毎年測り続けている公式調査があります。総務省情報通信政策研究所の「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」。テレビ・ネット・新聞などの利用時間を、同じ方法で測り続けている調査です。自分を責めるかどうかを決めるのは、この平均を見てからでも遅くないはずです。
休日、画面の前にいる時間は、平均どれくらいでしょうか
令和6年度調査は、13〜79歳の男女1,800人を対象に、令和6年12月2日から8日にかけて行われました。調査員が家庭を訪ねて日記式の記録とアンケートを併行する「訪問留置調査」で、記憶頼みのアンケートよりも実態に近い測り方です。
結果はこうでした。平日は、インターネット利用が平均181.8分、テレビ(リアルタイム)視聴が154.7分。休日は、インターネットが183.7分、テレビが182.7分。
休日のネットは、約3時間。
しかも、テレビとの差はわずか1分です。休日の午後がまるごと入ってしまう長さの時間が、平均として、画面の上を流れています。
200分という区切り
さらにその1年前、令和5年度調査(13〜69歳の男女1,500人、令和5年12月2日〜8日、同じ訪問留置調査。70代296人は別枠の試行調査で、この数値には含まれていません)の報告書には、こんな一文があります。「休日の『インターネット利用』の平均利用時間が、初めて200分を超過」。
200分は、3時間20分。一部のヘビーユーザーの話でも、若者だけの話でもなく、13歳から69歳までをならした「平均」がこの長さに達した、という公式の記録です。
(この一文を最初に読んだとき、思わず自分の先週の日曜を指折り数え直しました。……話を戻します。)
つまり、「気づけば休日が画面に流れ込んでいた」という感覚は、珍しい体質ではなく、統計の上では社会の標準的な休日の姿にかなり近い。自分ひとりの緩みの証拠として抱え込むには、あまりに大勢が同じ川の中に立っています。
「見すぎ」の基準は、誰にもまだ決められていません
ここで、数字の扱いに注意書きを二つ。
一つめ。令和5年度は13〜69歳、令和6年度は13〜79歳と、測っている集団そのものが変わっています。だから「200分超えから183.7分に減った」と一本の線で結ぶことはできません。分母が違う二つの写真を、同じ人の成長記録のように並べてはいけないのと同じです。
二つめ。この調査が測っているのは時間の長さだけです。「何分からが見すぎか」という線も、本人がその長さをどう感じているかも、そしてなぜ伸びているのかという原因も、報告書には載っていません。依存だ、意志の弱さだ、アプリの作りのせいだ——世間ではいろいろな説明が飛び交いますが、はっきりした理由は、この数字だけでは分かりません。
言いかえると、「使いすぎ」と判定できる公式の線は、いまのところどこにも引かれていない。責める根拠も、安心する根拠も、統計はまだ渡してくれていないんです。線を引くのは、いまのところ本人の感覚だけということになります。
時間の使い道は、置き換わっているだけかもしれません
もう一度、令和6年度の休日の数字を並べます。ネット183.7分、テレビ182.7分。ほぼ同じ長さです。
この並びからは、「休日に3時間ほど画面を見て過ごすこと」自体は、テレビの時代から続いてきた過ごし方だ、という読み方もできます。水の流れ込む先が、茶の間の大きな画面から、手の中の小さな画面へ移っただけかもしれません。報告書が因果を示しているわけではないので、あくまで眺め方のひとつです。
それでも、この眺め方には効き目があります。「昔の人はもっと有意義に休日を過ごしていたのに、自分は」という比較のつらさが、数字の前ではだいぶ薄まるからです。テレビの時代にも、画面の前で3時間近くを過ごす休日はあったはずです。画面が変わっただけ、という可能性が残っています。
休日の使い方を、自分の手に戻すために
統計は、原因も対策も載せていません。以下は、そのデータから離れた、個人の癖として続けていることの話です。
わたしがときどきやるのは、日曜の途中で一度だけ、画面から顔を上げて時計を見ること。減らすためというより、いま何時で、あと何時間残っているかを知るためです。流れる水を全部せき止める必要はなくて、手ですくいたい一杯が今日あるかどうかを、一度だけ確かめる。それだけの癖です。
ひとつだけ書き添えるなら、「責める時間」を「眺める時間」に替えてみる、ということ。夕方に「今日も溶けた」と裁くかわりに、途中で「いま流れているな」と眺める。その日曜の3時間が良い時間だったかどうかを決める権利は、統計にも世間にもなく、あなたの手の中にあります。
画面の外にも、時間の使い道はいろいろ残っています。台所で湯を沸かす音を聞くだけの5分。ベランダで洗濯物を取り込む数分。統計が測っているのは画面の時間だけで、こうした細切れの時間は数える対象からそもそも外れています。休日の実際の時間割は、画面の時間とそれ以外の時間が細かく混ざり合っているというのが、実感に近いところです。183.7分という数字は、その混ざり合った時間のうち画面に流れた分だけを切り出した値だと思うと、少し扱いやすくなります。
まだ、決めなくていい時間について
意志が弱いのかどうか。その判定は、保留のままでいいと思っています。公式の統計が教えてくれるのは、休日の平均が200分を超えた年が社会にあったこと、いまも平均3時間前後という長さが調査のたびに記録されていること。そこまでです。
流れた時間を責任問題にしなくても、日曜の水は、また来週も流れてきます。
指のあいだを流れていった日曜のことを、そのまま誰かに話してみたくなったら。こっそりカフェは、そんな気持ちを匿名で、無料で話せる場所です。(叱ったり、こうしなさいと導いたりするためではなく、)ただ、あなたの話を聞くために、学生の相談員がいます。すぐにお返事できないこともありますが、言葉にしてみたくなったときに、そっと開いてもらえたらと思います。うまくまとまっていなくても、「休みの日、気づいたらずっと画面を見ていて、自分が嫌になる」だけでも大丈夫です。
もし、いますぐ誰かに助けてほしい、つらくて限界だ、というときは、よりそいホットライン(0120-279-338、24時間・無料)など、すぐに話せる窓口も遠慮なく頼ってください。




